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どちらでも良い(2月28日全校礼拝にて)

新約聖書フィリピの信徒への手紙 1章12~18節

 

Only One 聖人になるためにはどうしたら良いか。
自分以外のものを自分に貼り付けたら、それはもはや自分ではない。
それを剥がしていく。
それがOnly Oneへの道筋。
ただ、自分に貼り付いているものが何か。
「自分」と「自分に貼り付いているもの」
「自分」と「自分でないもの」
この区別は容易ではない。
私たちは「自分でないもの」を自分自身だと思い込んでいるところがある。
特に愛するものから言われた言葉。
信頼するものから言われた言葉。
仲間、家族
彼らから「あなたはこういう者よね」「こうなると期待している」
私たちはその言葉に答えようとする。
それが自分に与えられた道、自分自身だと思い込む。

私たちもすでに経験している。
家族の言いなり、人の期待に応えるのが自分自身ではないと。
その時、どうするのか。

家族に反抗する。
家族の言葉を批判する。
それをもう行っている者もいるでしょう。
ただ、それは本当に自分自身を生きることになっているのか。
家族、他者、彼らの言葉に従うのはもちろん自分を生きることではない。
そして、家族、他者、彼らの言葉に反発をするのも自分を生きることではない。
なぜなら反発とは彼らを意識しているから起こること。
彼らを意識している。
それは彼らが自分に貼り付いていること。
私は私になっていない。
ならばどうするのか。

今日の聖書の言葉を記したパウロ。
この者も本当の自分を生きようともがき苦しんだもの。
そのパウロが見つけた生き方。

仲間が自分を応援してくれる。
仲間がイエスの言葉を語ってくれる。
他方、自分と相いれないイエスについての解釈を持っているもの、いわば敵。
その者たちがパウロを苦しめようと活動を始めている。
この両者を見比べてパウロは言う。
どちらでも良いと。

諦めではない。
どちらからいっても世界は壊れない。
この世界は神が支え、納めている。

他者の言葉に従おうが、否定しようが、どちらでも良い。
どちらでも良い
と思えた時に、他者から解放される。

Only One 聖人になる。
他者から解放される。
自由になる。
そこで自分に出会い、自分を知る。
Only One 聖人と出会う。