I am who I am(2月14日全校礼拝にて)
旧約聖書出エジプト記 3章10~14節
神様とモーセが出会う場面です。
神様から使命を言い渡されたモーセ。
自分にはそれはできない、とのやり取りをしている時に神様に尋ねます。
「あなたのお名前はなんというのですか」
神様が答えます。
「わたしはある、あるというもの」
日本語では分かりにくいですが、英語だとこうなっています。
I am who I am
この形は何を言っているのでしょうか。
「あなたは誰ですか」と質問した時に
I am
との答えを聞いたあと、私たちは期待をします。
am の次に何が来るのか?
職業か、所属している組織、学校、会社、地位など
私たちが知っている何かが来るものと期待します。
ところが神様の言う
I am の次に来るものは
who I am
また I am です。
新しい情報が何もない。
私は私は私は私・・・・・
と続く形です。
私たちがこれから迎える状況
人口減少
これはどうしたって来るものです。
私たちはその世界を、ただサイズダウンをするくらいにしか想像をしていないところがあります。
ただ現実に起こることはサイズダウン程度のことではないと思います。
今まであったものがなくなる。
何がなくなるのか分からない。
徐々になくなるのか、突然なくなるのか、それすらも分からない。
人口だけのことを言うならば、江戸時代と同じくらいの人数になると言われます。
単純には言えませんが、江戸時代と同じ環境になると考えることも必要でしょう。
学校を始め、私たちの身の回りにあるものは人口が増える、成長することを前提に作られてきたプログラムです。
それと全く違うことが起こる。
それはこれまでのものがまったく役に立たないということです。
そういう時に私たちは何をすれば良いのか。
私たちが人から与えられてきたもの
職業や、地位、富
自分以外のもので自分を作る。
それはI amの次に続く述語をコレクションすることです。
I am a student
I am a teacher
ですが、そのコレクションは何の意味も持たなくなる。
イスラエルは二度の大きな戦争に負けて絶望を味わった民です。
その民が出会った神
それは
I am who I amの神です。
自分を自分以外のもので言い表そうとしない神。
それは私たちも同じです。
自分以外のものに自分を預けて自分を把握していては、その自分以外のものが失われた時に自分も同時に喪失してしまいます。
私は何者か
I am who I am
自分を問い続ける。
その「問い」がどのような時代が来ようとも、時代に飲み込まれない。
どのような時あっても希望を語れるものになっていく力があるのでしょう。
Only One
聖人
聖学院が大切にしているもの
I am who Iam
「問い」を止めない。
そこからしか近づけないものです。
今日一日
「問う」を忘れない。
そういう一日にしてください。