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一匹の羊を探す物語は聖学院の物語(7月6日全校礼拝にて)

マタイによる福音書18章10~14節
「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつも私の天の父の御顔を仰いでいるのである。あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もしそれを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

 

百匹の羊を飼う羊飼い。
一匹の羊が迷い出る。
九十九匹を野に残して探しに行く。
見つけたら大喜びをする。

イエス様が語ったたとえ話。
なぜ羊飼いは一匹の羊を探したのか。
自分のものだと思っていたから。
自分自身だと思っていた。
百匹で自分自身。
一匹でも欠けたらもはや自分ではなくなる。

神様も私たちのことをご自分自身だと思っている。
だから私たちを見捨てることはない。

これはよく聞く解釈。
正しい解釈。

その上で皆さんに聞きます。
この「一匹の羊が迷い出た」というお話しは単なるたとえなのでしょうか。
理想を語っているだけで、どこにもない、
少なくとも自分たちの周りにはない空想のお話しなのでしょうか。

すぐそばに現実にあるでしょう。
このたとえ話は聖学院を語っているものです。
この物語を生きているのが私たちです。

今日で1学期の授業は終わりです。
ふり返ってください。
あなた達が先生方から、何をしていただいてきたか。
担任の先生から、学年の先生から何をしていただいたか。
思い出して下さい。

羊が群から離れていく。
それは聖学院の言葉で言えば
自分以外のものに心奪われ自分でないものになろうとしている。
本当の自分、Only Oneを探す場所からどんどん遠ざかって行く。
そんな羊がいれば
追いかけていくでしょう。
叱りもしますよ。
あなたたちからすれば自分が何故怒られるのか、分からないこともあるでしょう。
分からない。
分からないから群から離れていくのです。

自分がしたいと思っていることを行なっているだけだ。
ただ、その自分だと思っているものはもはや自分ではない。
自分ではないものを自分と思っている。
だから叱る、怒られるんです。

今は分からないかもしれません。
今は不愉快なだけかもしれません。
それでもあなた達を引っ張り返します。
あなた達を自分自身、聖学院だと思っているからです。
人は本当の自分を探せるところにいなければならないと信じているからです。

ただ、それは先生とあなた達、生徒の関係に止まるもので良いとは思っていません。
あなた達の中から群から離れそうになるものがいる。
自分じゃないものを自分だと信じ込んで突っ走っているものがいる。
呼び戻しなさい。
離れようとしている友達
自分を見失っている仲間
彼はあなた自身なんです。
みんながそろって自分なんです。

あなたの敵を愛しなさい。
敵も私。
全部が私。
余計なものなど何もない。
なくても良いものなど何もない。

一匹の羊を探す物語
聖学院の物語です。