イエス様の「12」弟子(5月18日全校礼拝にて)
新約聖書使徒言行録 1章12~26節
大切なものを失った。
自分の仲間。
自分自身の何か。
大切なものを失った時、人はそれをどう乗り越えていくのか。
今日の聖書の物語はそういう話です。
イエス様の12弟子。
イエス様と行動を共にしていました。
イエス様一行がエルサレムに入った時、敵対している祭司長はイエス様を探します。
イエス様の考えが危険だと感じたから。
それに民が喜んでいるのを知っていたから
なんとかしてイエス様を捕まえようとします。
ただ、イエス様の顔を知りません。
困っていた所にイエス様の弟子であるユダが
「私が祭司長様にイエスがどの男かお教えします」
と密告をします。
ユダは約束通りイエス様はこの人です、と教えることに成功をします。
ただ、ユダはこれを軽く考えていました。
少し痛めつけられるはするがイエス様はすぐに帰って来るだろうと。
ところが裁判が進んで行き、イエス様の死刑が確定する。
驚き、後悔をしたユダは自ら命を絶っていく、というのが今日の聖書の背景です。
ユダがいなくなった後、ペテロが皆の真ん中に立って語りだします。
ユダのしたことをふり返り、ユダを糾弾するかのような言葉です。
おそらくペテロはユダを大切な仲間だと思っていた。
一緒に歩んできた大好きな仲間だと思っていた。
自分に何かできたことはなかったのか。
もっとこうしておけばよかったのではないか。
自分を責めたでしょう。
で、その後です。
ペテロはユダがこうなったのは神様が決めたことだからと割り切ります。
自分たちがどうのこうのできるものではない。
神が決めたこと。
自分たちはそれをただ受け入れるしかない。
受け入れさえすればいいんだ。
それからペテロが取り組んだことは、いなくなったユダの代わりを探すことです。
12人に戻すことです。
「12」
ここには聖書の文化圏の思想があります。
おそらくは天文学あたりから生まれた発想なのでしょう。
時間、季節が流れていく。
太陽の動き、月の満ち欠け、星の位置。
それを良く見ていると、リズムがある、周期がある。
それを「12」で把握すると全体の動きが説明しやすくなる。
12を完全数と表現をしたりもしますが、世界を把握しやすい数
世界全体を表わす数として聖書の文化圏では定着をしていたようです。
12弟子
これも実際の人数を語っているよりある象徴と考えるべきでしょう。
12人
それが完全な数
完全な世界
それが欠ける、そこに余計なものが着く。
それでも必ず「12 」にもどれる。
私たちが探すOnly One
それは「12」と言っても良いでしょう。
本当の私
本当の聖学院
本当の国、社会、世界
それが「12」です。
その「12」は必ず12でいられます。
12になれます。
これが私の「12」
それが見つかれば、それはいつでも12のままです。
完全な私
聖人のままでいられます。
私の「12」
それを今日も探し求めてください。