敵は何か(12月8日全校礼拝にて)
マタイによる福音書5章43~48節 敵を愛しなさい
友達とはどういう人たちですか。
仲間とはどういう人たちですか。
そして敵とはどういうものですか。
同じ空間の中にいます。
同じ教室。
同じ社会。
同じ国。
同じ星。
同じところにいながら「仲間」と「敵」ができてきます。
どこでそれは分かれるのでしょうか。
みなさんには「敵」という存在がいないことが望ましいですが
それでも自分と相容れないもの
負けたくないもの
安心できないもの
注意をしなくてはならないものがいるでしょう。
仲間、家族
こういうものについてはどうでしょうか。
今、家族のことが頭から離れない
友達のことが気になってしょうがない。
相手が病気だとか、心配事がある、という場合には意識をするでしょうが、
普通は仲間のことはあまり意識をしません。
これに対して敵はどうか。
四六時中考えるでしょう。
油断をすると襲って来るかもしれないから
危険な相手だから
防衛の本能で、敵については四六時中考えるでしょう。
それは仕方にないことかもしれませんが
四六時中考えるとはどういうことか。
自分の時間をその者のために使っているということでしょう。
その者に時間を持って行かれているということでしょう。
「敵」「相手」「誰か」「他者」
自分以外のものに自分の時間を、心を持って行かれる
それが「敵」というものの性質でしょう。
イエス様は「あなたの敵を愛しなさい」と言いました。
嫌いな相手でも我慢して好きになれ、と言っているのではありません。
心を持っていかれないようにする。
そのためにどうすればいいか、考えろ、と言っているのです。
神は善人にも悪人にも太陽を昇らせ、雨を降らせる。
神は善人だ、悪人だ、とそんなことを気にしてはいない。
善悪などに注目をしていない。
善悪
それは神が設定しているものではない。
人が、私が作り出しているものです。
敵というとはっきりしたものになると思いますが仲間、友達と敵の間にいるようなもの。
悪ふざけを仕掛ける相手。
悪戯をしても良いと思える相手。
いじめをする相手。
あなた達はどうして「いじめ」をしたいのですか。
「わるふざけ」や「いたずら」をどうして行いたいのですか。
相手の困る顔がみたい。
その者が泣くと楽しい。
それはどういうことですか。
敵を作り出すのと同じことでしょう。
自分ではないものの様子によって楽しみを得ようとする。
自分ではないものに頼って笑おうと考える。
いじめは良くない
いじめはやめよう。
当たり前のことです。
ただ、私たち聖学院は「よくないからやめましょう」というレベルでいじめをやめろと言っているのではありません。
いじめ
人の様子を見て、笑おうとする。
それはNumber Oneの発想です。
他者に依存して自分を形成する。
そんなことではいつまでたっても自分を知ることにはならない。
Only One
本当の自分
それは他者に寄りかかっていては見つけられない。
いじめなんかしているもの
Number Oneの思考で動いていては本当にしなければならないものがいつまでもできない。
Only Oneが見つけられない
だからいじめをやめろと言っているんです。
聖学院は本当に自分を見つけようとする者を応援します。
どんな機会でも提供しようとします。
ですが、自分を探しもしない。
自分以外のものばかりに心持って行かれ、そこから帰ろうともしないものに時間を費やすつもりはありません。
そういうものは本当にこの聖学院に相応しいのか、よく考えなさい。
ここで6年過ごすということはどういうことか、よく考えて下さい。
今日で2学期の授業はおしまいです。
明日から試験ですが、それが終われば冬休みです。
時間は沢山あります。
しっかり考える時間にして下さい。