不条理の世界であっても(11月24日全校礼拝にて)
旧約聖書創世記 4章1~7節 カインとアベル
カインとアベルの物語
不条理がテーマの物語です。
カインとアベル
兄弟です。
この二人は神様に喜んでもらおうとして捧げものを持って行きます。
弟のアベル。
捧げものを神様に喜んでもらえました。
兄のカイン。
捧げものに神様は見向きもしませんでした。
二人とも一生懸命にがんばった。
ですけれども評価をしてもらえるもの、そうでないものに分かれてしまう。
これはこの二人だけの話ですか。
私たちの物語でしょう。
「神様」を私たちは時空の中の存在と考える傾向があります。
世界のどこかに神様がいて、天使がいて、私たちがいる。
世界の中でそのものたちが活動をしていると。
これは一般的なイメージですが、聖書はそのようには考えていません。
神様とは世界そのものです。
宇宙そのものです。
それよりもっと大きいものそれが神です。
神がいるのか、いないのか。
聖書の答えは明確です。
世界があるなら、宇宙があるなら、それが神だろう、です。
神様が私の努力を評価してくれない。
それは世界とはそういうところだ、というのがこの物語の告げていることです。
この世界はどんなに努力をしても報われないことがあります。
遊んでばかりいる人間が評価をされることがあります。
不条理です。
それがこの世界です。
ならば、そういう世界で生きる私たちはどのように生きればいいのでしょうか。
物語に即して言うならば、神様から評価をされなかったカインはどのようにすればよかったのでしょうか。
前回の礼拝の話で嵐の中のイエス様の話をしました。
湖に船でこぎ出したイエス様一行が嵐に見舞われるという出来事です。
嵐に見舞われた弟子たちは慌てふためきます。
嵐の中で眠りこけているイエス様を弟子たちは起こします。
「なんとかして下さい」
「助けてください」
これに対してのイエス様の答えは「信仰がないのか」でした。
弟子たちはこの嵐の中でどうすればよかったのか。
眠っていればよかったのでしょう。
おそらくこれはカインとアベルの物語に通じています。
神様に評価をされなかったアベルはどうすればよかったのか。
高校3年生は、この物語と直結しているでしょう。
がんばったのに報われない。
自分の努力が評価された。
そういう経験をしているでしょう。
嵐の中の弟子たちやカインと同じような体験です。
弟子たちはなぜ怖がったのか。
カインはなぜ怒ったのか。
私たちは試験の評価にどうして一喜一憂するのか。
弟子たちは嵐に心が持って行かれているから。
カインは神様の評価に心が持って行かれている。
私たちは試験の結果に心が持って行かれている。
嵐、神、試験
これらはなんですか。
自分以外のものでしょう。
自分以外のところに心が持って行かれる。
それは心が自分から離れている。
自分の中に心がないという状態でしょう。
試験の結果に喜んではならない、と 言うつもりはありません。
喜んでいいんです。
ただ、それは誰かが下した評価です。
逆も同じです。
評価されなかった。
がっかりして、落ち込むのも仕方のないことでしょう。
ですが、それは他人が下した判断です。
喜んだり、がっかりすることはあっても仕方のないことですが、
それらはすべて自分以外のもの、他人が行った判断です。
自分以外のものの評価に付き合うのはほどほどで十分です。
心が本当になければならないのは他人のところではありません。
心は自分に留めていなさい。
神様に評価をされなかったカインはどうすればよかったのか。
「ああ、そうですか」
と言って、来年も、その次の年も神様に捧げものを持って行けばいいだけのことです。
神はどう言おうが
だれが何を言おうが
世界がどうであろうが
私のするべきことはこれだ、信じることを行うだけ。
それがカインのしなければならないことだったはずです。
人に心を持って行かれない。
自分に心を留める。
その自分て、なんだ。
聖学院はあなた方に色々なものに挑戦をすることを勧めています。
それは大学受験の時に誰かに評価をされるための材料集めではありません。
人の評価に心を奪われない強い人を作るための勧めです。
本当の自分を見つける、それを6年間、教育しているのが、この学校です。
神に褒められようが、叱られようが、これが私、という自分を見つけ出す。
そういう人間を神は本当には喜ぶのです。
そういうものが現れるのを待っています。
心を自分に留めることのできる強い人。
それを聖学院では聖人と呼んできました。
今日も聖人に向かう一日にして下さい。