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嵐と自分の間にはさみ込めるもの(11月17日全校礼拝にて)

新約聖書ルカによる福音書 8章22~25節 突風を静める
ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたので、船出した。渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。

 

今日の聖書の物語は「嵐の日」の過ごし方です。
思い通りにならない。
直面している相手が自分より途方もなく強い。
自分ではどうすることもできない。
進むことはできない。
ここに留まる。
もう沈むしかない。
そういう日の過ごし方です。

イエス様は弟子たちに向こう岸に渡ろうと提案します。
弟子たちが自ら進んで行こうとしたのではありません。
私たちの人生も同じでしょう。
自ら、始めるぞ、と思ってこの世界に生まれたわけではないでしょう。
自分ではいつ決めたのか分からない。
自分抜きで始まったもの。
それでも自分がしっかり巻き込まれているもの。
そこで嵐に出会います。
こんなところに来ようと思って来たわけではない。
理由も何もない。
納得もなく、とにかく途方もない相手と向き合わされている。

こんな時、私たちならどうするか。
自分より力のあるものに頼ります。
自分の不足を補ってくれるものにすがります。
神様に祈る
それもひとつでしょう。
弟子たちも同じでした。
イエス様にすがりました。
船の中で眠っていたイエス様を起こします。
先生、助けてください、と。

イエス様は起き上がって
嵐を沈めます。
そして弟子たちに言います。
「あなた方の信仰はどこにあるのか」

怖いから自分より力のある方にすがる。
それじゃダメだ、というのがこの物語です。

イエス様の言う「信仰」とはなんでしょうか。
嵐の中でイエス様から叱られない弟子たちの振る舞いとはどのようなものだったのでしょうか。
これについては答えが出ています。
イエス様と同じようにしていればよかったのです。
寝ていればよかったのです。
ただ、弟子たちもそうですが、私たちも嵐の中で眠っているなどできません。
そこが今日の物語で私たちが考えなければならないことです。
嵐の中でどうして眠れないのか。
怖いから。
人はなぜ怖がるのか。

目の前に、自分の力では太刀打ちのできないものが現れた。
どうすることもできない。
怖い。

怖いが生まれるとはどういうことですか。
逆に怖くないとはどういうことですか。
怖くない。
目の前のものと自分との間に距離がある。
目の前のものに対して自分は自由にふるまうことができる。
この状態では怖くはありません。
では怖いとは。
距離がない。
自由がない。
簡単に言うならば、相手に自分が乗っ取られる、と感じた時に怖いという思いになるのでしょう。
自分が自分でなくなる。
それが怖いです。

こうならないためにはどうしたら良いのか。
それがイエス様から弟子たちに指摘したことです。
信仰がないからだ。

信じる。
自分か、神か、未来か、希望か。
おそらく信じるという心になれるのなら、なんでもいいです。
自分が信じている。
信じているものとは変わらないものです。
信じる
それは信じている自分は変わらない、ということになります。
私は変わらない。
どんなに強大な相手でも、自分は変わらない。
乗っ取られないです。

大きな相手
嵐と自分の間に距離を、隙間を作る。
嵐と自分の間に信じられるものを挟み込む。
嵐に飲み込まれない私になれるはずです。

嵐との間に何を挟み込むのか。
何を信じるのか。
それは私たちがそれぞれに見つけ出さなければならないものです。
嵐と自分の間にはさみ込めるもの。
それはOnly Oneと重なっているはずです。
嵐の中でも騒がず、眠っていられる「信じるもの」を探す一日を始めましょう。