目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。(9月28日全校礼拝にて)
新約聖書マタイによる福音書 25章1~13節「十人のおとめ」のたとえ
私たちがよく知っているタラントンのたとえ話。
その直前にあるのが今日のたとえ話です。
そして、更にこの直前には前回読んだ「賢い僕と愚かな僕」のたとえがあります。
この三つの話はつながっています。
同じテーマを私たちに語りかけています。
今日の十人のおとめの話。
十人のおとめが花婿を迎えようとしていた。
到着の時刻は聞いている。
ランプを準備して花婿の到着を待っている。
ところが花婿の到着が定刻より遅くなる。
予備の油を持っていたおとめは灯を消すことなく花婿を迎えることができたが、
そうでないおとめたちは油を買いに出かけている間に門が閉ざされ婚宴の席に入ることができなかったという話。
「賢い僕と愚かな僕」の話も同じような内容です。
出かける主人から家の管理を任された二人の僕。
一人は普段通り家の仕事をする。
もう一人は主人がいないのを良いことに好き放題している。
まだ帰ってこないと思っていた主人が突然、帰って来る。
普段通り仕事をしていた僕は褒められ、好き放題していた僕は叱られる。
どちらの話も単純で分かりやすい話です。
これらの物語に共通していること。
失敗をした僕とおとめたち、何がいけなかったのか。
時間を設定したことです。
ここまでは大丈夫。
主人はこの時間には帰ってこない。
花婿はこの時間には到着している。
時間を自分で設定して、それに見合った振る舞いをした。
物語が私たちに告げていること。
あなたが設定した時間など、なんの意味もない、です。
現実に流れる時間は、私がここまでは大丈夫と思っても、必ずその先がある。
時間を設定すれば現実に対応できなくなる。
タラントンのたとえに登場してくる1タラントンを土に隠したものも同じでしょう。
ご主人が帰って来た時にこうすれば大丈夫と設定をしていた。
預かった1タラントンを返せば大丈夫と思っていた。
ところが現実はそうならなかった。
あなたが設定したものなど、現実の前ではなんの意味もない。
では、私たちは自分の設定を超えた現実に対してどのように向き合えば良いのでしょうか。
忠実な僕、賢いおとめ、5タラントン、2タラントン預かった者たちがしたこと。
それを行えば良いのです。
何をしたのか。
やろうと思ったことをした。
この者たちに共通しているものです。
彼らは特別なことをしてはいません。
忠実な僕は普段と変わらないことをしていたにすぎません。
愚かなおとめたちが油を買いに行けたことから、予備の油を購入することも特段難しいことではなかったと思われます。
予備の油を買う。
やろうと思ったことをしただけです。
1タラントンを土の中に隠していた僕が主人に叱られた時、「銀行にどうして預けなかった」と言われます。
「やろうと思えばできたよな」でしょう。
やろうと思ったことをやる。
Only Oneを見つける。
その入口を示しているのがこのたとえ話だと思います。
私たちは神様から賜物をいただいている。
それは掛け替えのない素晴らしいものでしょう。
そしてこの世界で必ず役に立つものでしょう。
ですが、「それはこれです」と私たちは自信をもって言えない。
どうやって見つけるのか。
やろうと思ったことをやる。
それを毎日繰り返す中でOnly Oneはその姿を表してきます。
やろうと思ったことをやる、一日にしてください。