「あちら」も「こちら」もない世界(6月2日全校礼拝にて)
新約聖書・使徒言行録2章5~13節
ペンテコステの物語。
2000年間、なぜ、この物語は語り伝えられてきたのか。
ここに大事なものがあるからでしょう。
ここにある大事なものとは何か。
物語はイエスの弟子たちが外国の言葉を話し出したというもの。
ユダヤ人である弟子たち。
その彼らがあらゆる国々の言葉で話し出します。
あらゆる国々の言葉と通じる。
あらゆる国々と同じになれる。
「あちら」と「こちら」を分けていたもの。
それがなくなる。
「あちら」と「こちら」はない。
これは物語に描かれた理想論ではありません。
イスラエルは過去にバビロニア帝国と戦争をし、敗れた経験を持っています。
「あちら」に攻め込まれる。
「あちら」に支配される。
自分たちの生活、これまで守ってきたものはすべて失われるのではないか。
それを経験してきたのがイスラエルの人々です。
またこのペンテコステの出来事が起った当時はローマ帝国との緊張が高まっている時です。
ローマ帝国に支配されたらどうなるのか。
自分たちの幸福は、生活はどうなってしまうのか。
「あちら」と直面すれば、「こちら」は今のままではいられなくなる。
「あちら」と「こちら」は違う。
私たち誰しもが描く認識、感覚です。
そういう経験の中で物語は「あちら」も「こちら」もないと語ります。
それが世界だと語ります。
バビロニアに敗戦して具体的に何をイスラエルの民が体験したのか分かりません。
ローマ帝国の支配が強まっていく中で、イスラエルの生活がどのようになっていったのか、分かりません。
どのような経験をしたのか分かりませんが、彼らが辿り着いた世界観は「こちらもあちらもない」です。
この世界観が提示されてから2000年、人類はなかなかこの世界観を共有することができません。
「あちら」と「こちら」は違う、
この世界観に立って「あちら」を恐怖し、憎しみを生み出し戦争を繰り返しています。
今は国同士の間の「あちら」と「こちら」が人類のもっとも大きな課題と考えられていますが、みなさんの時代はもっと大きな課題と向き合うかもしれません。
生成AIが話題になっています。
著作権の問題や、コピーとオリジナルの区別がつかない等が話題になっています。
ただ、専門家の間で、一番心配されていること。
それはAIが自らAI同士で対話を始めることです。
その結果、何が起こるか誰も予測ができない。
何も起こらないのか、何かが起こるのか、それすらも分からない。
人の介在できないところでAIの世界が出来上がっていくかもしれません。
人類が出会ったこともない「あちら」の誕生です。
そうなった時、世界はどうなるのか。
地球を駆け巡っている600兆ドルはどうなるのか。
現金にしようとしても貨幣に置き換えられるのは10%未満です。
ほとんどはネットワークの中にあるもの、「あちら」側、彼らのものです。
彼らはそれをどうしようとするのか。
もしかしたら、「あちら」は、私たちが実現できなかった正義が行われ、互いに愛し合うことができる平和を実現するかもしれません。
私たちが経験したことのない「あちら」。
私たちはそういう世界と直面するかもしれません。
その時、「あちら」も「こちら」もない、という世界観は果たして通用するのか。
聖学院が信じている世界は「あちら」も「こちら」もない世界観です。
未知なるものと出会った時、私たちは「あちら」も「こちら」もないという世界観を貫ける胆力を持っているのか。
私の世界観はどういうものなのか。
今日もここでの勉学を通して、来るべき時に備え、自分を鍛えてください。