聖学院の「真・善・美」(4月28日全校礼拝にて)
創世記1章1~4節
初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。
「光あれ。」
こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。
聖学院の校歌
「真・善・美をひとつに聖にすべくくりて」
今日は、この内の善と美についてお話しをします。
聖書の言葉、ヘブライ語では「善」と「美」は同じ言葉で表されています。
それが今日読んだ聖書の箇所、天地創造の物語で繰り返されています。
神様が言葉で世界のものを造っていく。
その神様がご自分で造ったものを見た時の言葉
「良しとされた」
これが「良い」と「美しい」とどちらでも読める言葉です。
「良い」と「美しい」
これがどうして同じ言葉なのか。
実は創造物語にそのヒントがあります。
創造物語では神が世界を造ります。
物語では神が言葉を発し、世界のものがひとつ、ひとつできていく様子を語ります。
空を造る。海を作る。植物を、動物を、人を造る。
その造るたびに「神が言った」「そのようになった」との表現が繰り返されます。
神という主体
その主体が造り出したもの。
それが「言う」と「そのようなった」で結ばれている。
主体が造り出した世界は、主体の思い、考え、心をそのまま映し出しているということです。
主体と世界がまったく同じと言っても良いでしょう。
それは鏡に映ったような関係と想像することもできます。
神様の心を鏡に映したら世界という姿になって現れる。
そこで「善」と「美」です。
善とは何か。
神を映し出すものです。
美とは何か。
神を映し出すものです。
それはどこにあるかと言えば、この世界の至るところにある。
この世界は善で美しいものだ、ということです。
ただ、これは私たちの感覚とは違います。
この世界のどこが善なのか、美しいのか、と。
争いが起こり、騙し合いがまかり通り、弱いものが虐げられる。
この世界のどこかに善があり、美しいのか。
その答えはきっとこうです。
それは鏡が曇り、歪んでいるからです。
神を、宇宙の秩序を歪んで、曇った鏡がちゃんと映し切れていない。
だから正しくない、醜い。
曇らせたのは私たちです。
歪めたのも私たちです。
鏡をちゃんとする。
それが、私たちがしなければならないことです。
それは世界という大きいサイズだけの話ではありません。
私はどうか?という話しです。
私は神の心を映しているのか。
神から与えられた賜物をちゃんと見ているのか。
曇って、歪んだ鏡で自分を見ていないか。
これが私
こんなものが私
私が見ている私を映し出した鏡はおそらくまだちゃんとしていません。
ちゃんとした鏡にしなければなりません。
曇った鏡を磨く。
歪んだ鏡をまっすぐにする。
Only One
本当の私に出会わなければなりません。
そのために必要なものを聖学院は今日もみなさんに与えています。
しっかり勉強し、学校生活を送ってください。
それを送ることで鏡が透き通ってくるはずです。
透き通った鏡を持つ。
透き通った鏡を知っている。
そのものが世界の「善」「美」を表わすことができます。
私たちの校歌を実現するために進む一日にしましょう。