これから動くわたしたちの賜物(3月2日全校礼拝にて)
マタイによる福音書20章29~34節
一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。群衆は𠮟りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。
3学期は「祈り」について考えてきました。
祈り、願い。
どのようにすればいいのか。
何を願えばいいのか。
祈る相手は神様です。
神様はなんでも知っています。
私が必要、欲しいと思う前から、私の願い事など全部知っています。
全部知っている神様に私たちは何を願えばいいのか。
二人の盲人がイエス様に願います。
「目が見えるようになりたいのです」
この物語には前半があります。
二人の弟子がイエス様に願います。
イエス様が偉くなった時には私たち二人も一緒に一番良い位においてください。
弟子たちと盲人、ふたつの願いがあります。
イエス様は弟子たちの願いは退けました。
盲人の願いは受け入れました。
どちらも願いなのに、何が違うのか。
二人の弟子の願い。
偉くなりたい。
地位が欲しい。
今の自分にないものです。
自分にないもの。
それを願う。
イエス様は「それは願いになっていない」と退ける。
一方の盲人たちの願い。
見えるようになりたい。
これも自分にないものです。
視力がない。
それが欲しいと願う。
同じなのではないかと思います。
ですが同じですか?
見えるようになりたい。
これは自分の身体に備わっていないものをくださいという願いでしょうか。
確かに視力はありません。
ですがこの二人は「目」がないわけではありません。
「目」はあります。
自分の持っている「目」が機能しない。
働かない。
それがちゃんと動くようにしてください。
自分にあるものがちゃんとなりますように。
二人の弟子たちと違います。
弟子たちは自分以外のものを求めました。
二人の盲人は自分が持っているものの働きを求めました。
これは、この二組だけの話ではありません。
私たちの話です。
私たちの願いは多くの場合、自分以外のものを求める祈りです。
全部、知っている神様には興味のない願いでしょう。
私の持っているもの。
神様から渡された賜物、これに気が付き、これをもっと上手に使いたい。
もっと輝かせたい。
神様が喜ぶ願いでしょう。
肝心なのは私が自分の賜物に気が付いているか、です。
この物語に即せば自分の「目」に気が付いているか、です。
持っていながら、まだちゃんと見ることができない「目」。
与えられていながらうまく動かすことができない賜物。
これを見つけるために「黙りましょう」と今学期、伝えてきました。
Only One
私の賜物
与えられていながら、まだ動いていないもの。
それが見つけられれば、願いが始まります。
祈りが生まれます。
見えるようにして下さい。
見たこともない私だから作れる未来が始まります。