1デナリオンの賜物(2月16日全校礼拝にて)
マタイによる福音書20章1~16節(「ぶどう園の労働者」のたとえ)
3学期は「祈り」について
「祈りの心」について考えています。
私たちはどういう「心」を持てばいいのか。
どのようにして「心」を整えていくのか。
今学期の最初に読んだ「マルタとマリア」の話。
忙しく働くマルタ。
何もしないマリア。
怒ったマルタがイエス様に「マリアもちゃんと働くように叱ってください」と文句を言います。
これに対してイエス様は「マリアは一番大切なものを手に入れた。それを奪ってはならない」と答えます。
一番大切なこと。
聞くことです。
黙ることです。
自分の言葉を捨てることです。
それが「心の整え方」です。
次に読んだのは「富める青年」の話です。
「どうすれば永遠の命を手に入れられますか」
私たちの感覚に近づけるなら
「どうすれば幸せになれますか」でしょう。
この問いに対してイエス様の答えは「律法をちゃんと守りなさい」でした。
青年は答えます。
「そういうものはすでにちゃんと守っています」
イエス様が聞いたこと。
それは律法を自然に守る「心」になっていますかということでした。
そこで続けて聞きます。
「持っているものを全部、売り払いなさい」
律法を守る心。
それは自分と自分以外の区別をつけることです。
自分以外のものが自分だと思い始めると
盗むことも平気になります。
人を傷つけることもやっても良いことだと思い始めます。
自分と自分以外の区別がちゃんとできている。
それが出来れば律法は自然に守れるはず。
富は自分じゃないよね。
律法を守る心が備わっているなら、自分以外のものなくても良いよね。
この問いかけに青年は答えることができませんでした。
富が自分だと思っているからです。
富がなくなれば自分もなくなる。
自分を守るため、富を守ります。
富に心が奪われている。
自分以外の所に心が行っている。
捨てられない。
聞くことができない。
青年はイエス様の前から立ち去ります。
心を整えることが出来ませんでした。
ただ、私たちも、この青年の気持ちは分かります。
どちらかと言うとイエス様の方が無理なことを言っている。
なんでイエス様は簡単に「捨てろ」と言うのか。
その答えになるのが今日の聖書の箇所です。
ぶどう園の収穫の日。
主人は働き手を求めます。
朝早くから声をかけられた者。
お昼頃に呼ばれた者。
最後の一時間しか参加できなかった者。
様々な者がぶどう畑にいました。
その者たちに1日の賃金が配られます。
1デナリオン
朝早く働いた者も、夕方一時間しか働かなかった者も同じ金額が支払われます。
当然、不満が出ます。
長く働いた者も一時間しか働かなかった者も同じ報酬なのはおかしいと。
たしかにおかしな話です。
おかしな話ですが、これが私たちの本当の世界です。
1デナリオン
これは私たちに与えられた賜物です。
若い時に自分の賜物に気が付いた。
自分のしたいことを一所懸命に行った。
幸せな人生でしょう。
逆にいつまでたっても自分のしたいことが見つからない。
満足のできる人生にならない。
つまらない毎日を送っている。
ですが1デナリオン、賜物を見つければ、その時から世界は変わります。
見つかった時、つらい時間を全部忘れられます。
これを見つけるために自分の苦労はあったのかと、つらかったことが楽しい記憶に替わっていきます。
1デナリオン
誰にも等しく与えられています。
早く見つけようが、ゆっくり見つけようが、どちらでも良いのです。
1デナリオンは時間がたっても変わりはしません。
1デナリオンは1デナリオンのままです。
1デナリオンとは必ず出会える。見つけられる。
すばらしいものとあなたは出会える。
本当の世界とはそういうところだ。
だから捨てなさい。
自分以外のものはいらないでしょう。
じゃまでしょ。
余計なものを捨てて、自分だけになる。
自分を見つける。
自分を知る。
自分と向き合える心を今日も培っていきましょう。