【3学期始業式メッセージ】「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコによる福音書4章1~9節)
マルコによる福音書4章1~9節
イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると、茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。
3学期が始まりました。
学年の締めくくりの学期です。
この3学期に取り組んでもらいたいこと。
それは「祈る」ということです。
祈りとは何でしょうか。
多くの人が初詣に出かけます。
これも祈りと言っていいでしょう。
宗教は「祈り」を大切にします。
祈ることを勧めてきました。
祈願、という言葉もあります。
私たちは祈りというと神様に自分の願いごとを報告する。
かなえてくださいとお願いする。
それが祈りだと考えています。
ですがどうでしょうか。
私たちの願いは祈ったからと言ってかなえられていますか。
願いは成就していますか。
ほとんど、と言って良いほど、私たちの願いはかなえられてはいないでしょう。
ウクライナの戦争が早く終わりますように
世界が平和になりますように
私たちは祈ってきました。
それでも2023年になっても戦争は終わる気配も見せていません。
祈っても実現しない。
それが私たちの体験です。
それは2000年以上続いているキリスト教は百も承知していることです。
数千年続いている宗教なら当たり前のこととして受け止めていることです。
祈っても聞かれない。
ならばどうして祈る必要があるのでしょうか。
聞かれないと分かっているのに、どうして宗教は「祈り」を勧めるのでしょうか。
それを考えるひとつの手がかりが今日の聖書の箇所です。
イエス様が語ったたとえ話です。
種がまかれた。
硬いところに落ちたもの、
石地に落ちたもの、
茨の中に落ちたもの、
これらは芽を出すこともできないものあれば、芽を出すには出したがすぐに枯れてしまったもの。
ほとんどの種が実を結ぶことができなかった。
ただ良い地に落ちた種だけは豊かに身を結び30倍、60倍、100倍にもなった。
「種」に譬えられているのは「神の言葉」だとイエス様はその後で解説をしています。
「神の言葉」と言われてもまだピンときません。
「種」を私たちに引き寄せて、更に解釈しましょう。
種とは賜物です。
私たちひとり一人に神様から与えられている賜物です。
種が落ちた「地」
これは私たちの心です。
私たちは賜物が与えられている。
与えられてはいますが、その賜物に気が付き、それを育てることができるのは良い地と呼ばれる心だけです。
硬い心、自分以外のものに思いが奪われてしまっている心
そういう心は「種」「賜物」を育てることができません。
そういうものがほとんどだと聖書は言っています。
ここでこの譬えが語っていることをきちんと押さえなければならないと思います。
芽が出ない種がある。
それは種が悪いからではありません。
種に欠陥があったり、不出来だったり、それらの理由で芽が出なかったとは譬え話は言ってはいません。
芽が出ないのは「地」に原因がある。
これは祈りの本質を語っています。
願いがかなわない。
どうしてか。
私たちが願っても仕方のないもの
かえって私たちが不幸になるようなものを願っているからです。
イエス様は「私たちが願う前から神は私たちに何が必要かご存知だ」と言います。
だから祈れ、と言います。
祈りは私の願いを神に訴えるものではありません。
私が与えられている私の賜物
それが何かを求めるのが祈りです。
私は何者ですか?
私は何をするためにこの時代に、この場所に生まれてきたのですか。
私は何をした時にとんでもなく嬉しくなる者なのですか。
祈りは私の訴えではないと言いました。
言葉を換えれば、祈りは私が語る場ではないのです。
祈りは「聞く」時です。
神様の思い、
神様の私への願い、
私の賜物。
それを聞く時です。
「聞く」ためにはどうしたらいいか。
私が語っていては、言葉を持っていれば「聞く」ことはできません。
「聞く」ためにどうすればいいか。
黙ることです。
言葉を捨てることです。
祈る
それは私の言葉を捨てることです。
3学期、祈ることをしてください。
それは、私の言葉を捨てる練習をすることです。
言葉を捨てる。
私の賜物が見えてきます。
Only Oneが何か見えてきます。
聖学院に連なる私たちがしなければならないこと。
今日の聖書の最後でイエス様が言われています。
「聞く耳のある者は聞きなさい」。