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【シリーズ:聖書の思考回路】第21回

I am に込められたヨハネの思いはどのようなものなのか。
前回からの続きなります。

am に続く述語
私たちはこの述語に引っ張られます。
述語に支配されているのですから、これは仮言命題です。

ならば I am で終わっているエゴウ、エイミーという形
これは「定言命題」なのではないかと見当がつきます。
では、どうしてこれは定言命題なのでしょうか。
ヨハネ福音書の実際の物語において確認をしてみましょう。

この I am は頻繁に登場すると言いましたが、これはほとんどの場合、イエス自身の言葉として登場してきています。
イエスの活動に疑問を持つ者たちから「お前は何者なんだ」と問われた時に答えるイエスの発言がこの I am になります。

 

少し聖書の研究で明らかになったことをお伝えします。
旧約聖書の出エジプト記という物語があります。
エジプトで奴隷になっていたイスラエルの民がそこから脱出をして母国に連れ戻すという物語です。
その脱出を導くリーダーがモーセです。

このモーセが将来に自分の役目をまだ知らない時に、神様と出会う場面があります。
芝が燃えているのに、その芝がまったく燃え尽きないでいる。
その不思議な光景を目撃したモーセが炎に近づいて行った時に神様から声をかけられます。
この時に将来の自分の使命についてモーセは聞かされるのです。
モーセは困惑しますし、その使命を断ろうとします。
そのやり取りの中でモーセが声の主に名前を聞きます。
「あなたのお名前はなんですか」と。
その時、神様から告げられた名前は
I am that I am
でした。
これもインドヨーロッパ語族の表現として英語で記しますが構文は同じです。
私は以下のようなものだ。私だ。
なんとも日本語には翻訳がしにくい言葉遣いですが、構造はそういうものです。
“私”の説明をbe動詞に続いて語るのですが、それは「私だ」となっている。
私は私
とでも言えばいいのでしょうか。
ただここで確認をしたいのですが、この神様の「自己紹介」の言葉はbe動詞の後に私と「異なる述語」「私以外の言葉」で私を語っていないということです。
すなわち内容的には I am 以上の情報を提示していないのです。
I am と同じということです。
このことから聖書の中で i am との表現が出てくるとこれは神顕現の言葉だと考えられてきました。
I am と語るのは神様だ、と。

 

ヨハネ福音書でイエスが「お前は誰だ」と問われて「I am」と答える。
これは「私は神だ」と言っているのと同じです。
それはこの文化を共有していたイエスの論敵たちにも通じるものでした。
「イエスは自分を神だ」と言っている。
こんな奴を生かしておいていいのか。
イエスに対する憎しみが増強していったひとつの原因でもあります。

ただ、私たちが今、確認をしたいことは I am の何が定言命題なのか。
これが定言命題だとすれば、どのようなメッセージがここに込められているのか。
これは私たちの関心事です。

am に続く後に「私」「I」以外の言葉がない。
「I」「私」以外のものに頼ろうとしない。
これは定言命題の性質に当てはまるものです。
私以外のものを持とうとしない。
次回はここから I am、定言命題に込められたヨハネの思いを探ることにいたしましょう。