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【シリーズ:聖書の思考回路】第20回

このシリーズの投稿が少し時間が空きました。
年度の始め、なかなか執筆にとりかかれないでいました。
再開をします。

ヨハネ福音書を記した作者は「定言命題」を知っている。
その立場からお話しを進めていきましょう。

前回は「ロゴス」について記しました。
「ロゴス」
第一原因。
何にも依存していないもの、支配されていないもの、それが世界を造っている。
ヨハネの世界観です。
そこには私たち「人」も含まれます。
私たちもロゴスである。
何にも支配されていない、依存しないで立っていける、そういう存在であることをヨハネは福音書を通して私たち読者に語りかけています。

このロゴスと重なり合うものですが、もうひとつヨハネ福音書の特徴的な表現をお伝えしようと思います。
それは「I am」という表現です。
I amはもちろん英語ですが、ヨハネが用いているギリシャ語は英語と同じインドヨーロッパ語族のものです。
ですから、英語とまったく同じ性質でこれが記されています。
エゴウ、エイミーとギリシャ語では言いますが、これはI am とまったく同じです。
一人称単数と一人称単数に対応する存在は表わす動詞、be動詞の組み合わせです。

この I am という表現がヨハネ福音書には他の聖書の書物と比較して圧倒的に多いのです。
ここにはヨハネが思いを込めた何かがあると思えるのです。
それは何か。

これを考えるために I amはどういう目的で語られる言葉なのかを考えてみましょう。
I am は言うまでもなく、自分を表わす言葉です。
人に伝える。
それもありますが、自分を言葉に置き換える自己確認でもあります。

そこで一般論から考えます。
私たちは自分を確認する時、どのような言葉にするでしょうか。
人に私を伝える時、どのような言葉にするでしょうか。
I am でお終いにはしないでしょう。
am に続く、述語、職業、生い立ち、持っている夢など、なにがしかの述語を持って、私を確認したり、他者に自分を伝えます。
述語が必要なのです。
ここで質問をいたします。
この何気ない自己確認、自己紹介は「定言命題」でしょうか、「仮言命題」でしょうか。

考えてみましょう。
私たちが述語を用いる。
述語を介して自分を確認する、表現する。
それは述語に依存をしているということです。
職業でも、卒業学校でも、am に続く述語が立派であったり、人が驚くようなものであったりすると誇らしくなります。
むしろ自分を誇らしくするためにより良い述語を集めようとします。
逆もまた然りです。
述語が貧相なものだと、自分の存在までもが小さいものに感じてしまいます。
起こっていることは非常に単純なことです。
私は「述語」に引っ張られているのです。
すなはち、依存、支配をされているのです。
述語に執着、固執をしている。
これは「番犬の務めをすればかわいい」と同じ形式です。
仮言命題です。

では述語を持たない I am という形は何を読書に伝えようとしているのか。
次回はそこから始めましょう。