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【シリーズ:聖書の思考回路】第18回

聖学院が大切にしているOnly One
それは「聖書の思考回路」から来ています。
聖書の思考回路が私たちの中で動き出すとOnly Oneを見つけることが出来る。
ここまで、そういうお話しをしてきました。

聖書の思考回路は「定言命題」を下敷きにすると分かりやすい。
ただこの「定言命題」は「言葉」という地平だけで考えるとどうしても矛盾を生み出してしまいます。
「定言命題」を言葉で実行しようとすると「定言」ではなく「仮言命題」になってしまう。
言葉とは別の次元で考えないと「定言」は実行できない。

これに取り組んだのがパウロです。
パウロも言葉で「定言」を実行しようとしました。
しかし、「定言」を意識すればするほど「仮言」に入り込んでしまう。
「定言」から遠ざかってしまう。
そこでパウロが導き出したのは心の持ち方です。
言葉で「定言を実現するためにはこれこれのことをしよう」と思ってもダメだった。
言葉を捨てて、心の持ち方を大切にする。
自然と定言が実行できるものになる。
その心の持ち方をあえて言葉にしたのが「どちらでもいい」でした。
「どちらでもいい」は言葉通りに「どちらでもいい」を行えば良いというのがパウロの考えではありません。
「どちらでもいい」
そこで期待されているのは自由な心です。
「どちらでもいい」に固執することが「どちらでもいい」が期待していることではありません。
「どちらでもいい」に固執しても、しなくても、どちらでもいい。
「どちらでもいい」は「どちらでもいい」を忘れることですらあります。
忘れながらも「どちらでもいい」を実践していく。
それがパウロが提案した「どちらでもいい」です。

Only Oneを見つける。
それは「どちらでもいい」の心になる。

「聖書の思考回路」として私たちが見つけたものです。

ただこれは聖書のほんの一部分だけの紹介です。
聖書には「定言命題」が下敷きにあるでしょう。
ですが表に現れたものは「どちらでもいい」だけではありません。
他にも色々な表現をとって「定言命題」は現れてきています。

 

今回から、別の現れ方をしている「定言命題」をご紹介したいと思います。
Only Oneを見つける。
別の入口へご案内しましょう。

今回の別の入り口は「ヨハネによる福音書」です。
「福音書」というのはイエス・キリストの生涯を扱った物語です。
聖書には「福音書」が四つあります。
その中で一番最後に記されたのが「ヨハネ」の福音書です。
福音書の中で一番最後に記されたものでもありますが、もしかしたら聖書の中でも一番最後に記されたものであるかもしれません。

少し歴史のお話をします。
聖書はいくつもの書物が合本して出来上がっているものです。
いくつもの書物には記された時期に当然時間差があります。
およそ五、六〇年の開きはあるでしょう。
パウロの手紙はまとめられた新約聖書の中では初期に、すなはち一番古い層に属します。
手紙となっていることからこの文章郡を「書簡」と呼びます。
新約聖書は書簡が最初の頃に記されました。
書簡の特徴はイエスへの解釈が中心です。
イエスと同時代、同世代の人々が記したものですから
イエスから影響を受けたこと、
イエスを通して考えたこと、
それが書簡に記されています。
クリスチャン第一世代です。
この世代は生のイエスを知っていました。
ですからイエスから受けたことを記せばよかったのです。

それが第二、第三世代になっていきます。
生のイエスを知っているものがだんだんいなくなってきます。
イエスの生涯をきちんとまとめておく必要がある。
その必要性によって始まったのが「福音書」、イエスの生涯を物語にしたものです。
ですから新約聖書の中で後期の層に属します。
比較的新しいものです。

私たちは一番古いパウロの手紙から「どちらでもいい」を見つけました。
一番新しいヨハネ福音書ではそれはどうなっているのか。
ヨハネには「どちらでもいい」との表現はまったく登場しません。
ですが、パウロと同じものをヨハネも追いかけています。
「定言命題」
これを追いかけてヨハネもある表現を見出します。
それは何か。
それを見つけるのがこれからの作業です。

Only Oneの入口「どちらでもいい」
これと異なる入口を知ること。
それは私たちがOnly Oneを探すための大きな手助けになります。
ヨハネが見つけた「定言命題」の実践の仕方、Only Oneの見つけ方、これを次回から考えて行こうと思います。