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【シリーズ:聖書の思考回路】第17回

「どちらでもいい」
パウロが見つけた心の定め方です。
執着しないを実現する。
定言命題を実行する。
「どちらでもいい」
その心になる。

聖書はその冒頭、創世記で読者に課題を提供します。
極端な表現をすれば旧約聖書は読者に「問い」を投げかけます。
新約聖書はそれに答える。
そういうイメージです。
旧約聖書からの「問い」を新約・パウロの「答え」・「どちらでもいい」から解いていきましょう。

 

蛇に唆されたアダムとエバは、木の実を食べます。
これは誤りです。
ならば、どうすればよかったのか。
神様に評価されなかったカインは、弟のアベルを殺します。
これは誤りです。
ならば、どうすればよかったのか。

彼らはへこんだ心になっていました。
心は本来はまん丸です。
蛇に足りないものがあると脅されて心がへこみました。
大好きな神様に認めてもらえなくて心がへこみました。
まん丸な心を取り戻したい。
へこんだ部分を補ってくれるものを求めます。
心に何かを貼り付けてまん丸にしようとします。
「富」「名声」「権力」「仲間」「過剰な自己肯定/他者否定」
物語では「木の実」「弟殺し」です。
心に何かを貼り付けてまん丸の形に戻す。
執着、固執をする。
手放さない。
そうすれば心は一時、まん丸になります。
ただそれは一時の錯覚です。
本当の心はへこんだままです。
心をまん丸に戻すことはできるのか。
アダム、エバ、カインはどうすれば良かったのか。
旧約聖書の「問い」です。

 

パウロに言わせれば、答えは明瞭です。
「どちらでもいい」
と思えればよかった。

エバが蛇に「お前は不十分だ。木の実を食べれば神のようになれる」と言われた時に、「どちらでもいい」と思えれば、「これしかない!」「木の実を食べなきゃ!」とならなかったのではないか。

カインが神に否定された時、「どちらでもいい」と思えれば、弟のアベルを「殺すしかない!」とまでは思いつめなかったのではないか。

心がへこんでしまった時、「どちらでもいい」と思えれば、心のへこみは硬直化せず、やわらかく受け流し、元のまん丸の形を取り戻せるのではないか。

 

私たち聖学院が大切にしてるOnly One
どうやったら見つけられるのか。

number oneではないと言ってきました。
number oneは他者と比較して自分を確認すること。
他者に依存する仮言命題です。
自分は不十分だと思い込んだへこんだ心で自分を見つめる。
それでは本当の自分に出会えません。

Only One
人と比べない。
何にも依存しない。
定言命題で自分を確認する。
しかし、私たちは物事を考えること自体「脳」に依存します。
母国語に依存し、何らかの「これまでのわたし」に依存しています。
周囲の人、情報に依存しています。
自分でも気が付いていない「何か」に依存し、支配されているのが私たちです。
依存、支配から逃れられない。
Only Oneは簡単ではありません。

「どちらでもいい」と思ってみる。
分かっていて依存しているもの、
分からずに支配されているもの、
それらをいつの間にか洗い落としている。

Only Oneは意識して見つけるものではありません。
自然といつの間にか、感じ取るもの、身につくものなのでしょう。
意識をすれば執着になる。
意識しなければ何も変わらず支配、依存の中にいる。

Only Oneは簡単ではありません。
簡単ではありませんが、Only Oneを見つけるのは大切なことです。
そしてOnly Oneと出会うことは何より楽しいことです。

大切で一番楽しいことを115年、探しているのが私たち聖学院です。