【シリーズ:聖書の思考回路】第15回
年末年始とお休みしていた「聖書の思考回路」を再開します。
本年もどうぞよろしくお願いします。
少し間があいたので、まずはおさらいから。
昨年の終わりに皆さんに小さな宿題を出しました。
執着をしないようにするにはどうしたらいいか?です。
執着をしない。
そう決めてもこれは「執着をしない」に執着していることになります。
ですから執着は終わっていません。
執着は仮言命題(何かを経由しなければ目的地に辿り着けない)を作り出す根本にあるものです。
執着は仮言命題のみならず、聖書の思考回路の根っこにもある事柄です。
「定言命題」という考え方を紹介してきました。
「定言」と真逆は「仮言命題」です。
何かに依存して目的地に到着をするという思考方法。
この「仮言」には必ず不自由、支配がつきまといます。
「仮言」ではなく、何にも支配されない「定言」で行くにはどうしたらいいか。
こう考えた時に、同じ問題に直面します。
「定言で行こう」
そう選択、決断をするということは「定言命題」に依存をしていることになっています。
ですから定言を目指しながらも仮言命題で思考をしているのです。
定言命題に辿り着いてはいないのです。
「執着をしない」「定言命題を実行する」
表現としてはあります。
ただこれを実行しようとすると途端に矛盾に直面します。
始めようとしても、意識をした瞬間に同じところに留まってしまう。
始まらない。
矛盾を抱えざるを得ない。
ならば、これらの表現は表現だけのものなのか。
表現だけでなく実行、実現できるものなのか。
できるとしたら、どのようにすればいいのか。
これを見出すこと。
それが「聖書の思考回路」に辿り着くことになります。
執着、固執にパウロは苦しめられていました。
ユダヤ教、律法に固執、依存していたパウロは、始めは気が付きませんでした。
自分に執着、固執があることにさえ気がつきませんでした。
ですから自分が大切にしている律法を軽んじるイエスが許せなかった。
意識はしていませんが律法に依存しているパウロです。
ですから、その支えを否定されれば自分の尊厳の危機です。
自分を守るためイエスを否定します。
否定しながらある時、気が付き始めます。
「大切にしている」と思っていたのは「執着をしていたこと」なのだと。
依存、支配の中に自分はいたのだと。
しがみつくことを律法は求めているのか。
よくよく律法を読み返せば、律法に依存することを律法自身は望んでいないのではないか。
自由になることを求めているのが律法なのではないか。
律法を本当に理解していたのはイエスの方だった。
それからイエスの教え、考えを実行しようとします。
そして私たちと同じ矛盾に直面します。
「むさぼるな」と教えられて、それを実行しようとすると「むさぼるな」をむさぼっている自分に気が付く。
その葛藤がローマの信徒への手紙の7章に描かれています。
出口の見えないパウロの思いがつづられています。
執着をしない。定言命題でやっていこう。
パウロもこれと同じ格闘をします。
この解決は簡単ではありません。
ですがパウロは見つけたのです。
執着をしない方法。
定言命題を行う方法を。
新約聖書には複数のパウロの記した手紙、書簡が保存されています。
パウロの活動初期のものもあれば、晩年のものもあります。
その中に「フィリピの信徒への手紙」というものがあります。
パウロの活動後期のものです。
この手紙を記しているパウロはどうやら囚われているようです。
ユダヤ人からの訴えによりローマ当局によって囚われ、皇帝のいるローマに護送される。
それがパウロの晩年です。
囚われた時に記された手紙ゆえに「獄中書簡」などと呼ばれたりもします。
獄中書簡はパウロの後期のものです。
囚われてはいますが、ここに至りパウロはついに見つけるのです。
矛盾を解く思考回路。
すなわち「聖書の思考回路」を見つけたのです。
執着をしない。
定言命題を行う。
これをどのようにパウロは実現したのか。
聖書の思考回路とは何か。
次回はこれについてお話しします。