【シリーズ:聖書の思考回路】第14回
前回、心の形のお話をしました。
まん丸の心。
何にも影響されない「定言命題」の心です。
くぼんだ心。
くぼみを埋めてくれるものを握りしめようとする、
執着、固執がある「仮言命題」の心です。
このふたつの心を経験したのがパウロです。
パウロはとても優秀な律法学者でした。
律法、旧約聖書の教えを熱心に学び、大切にしていました。
言葉を変えればパウロは律法に執着していたのです。
「心の形」の説明をパウロに当てはめるなら、パウロの心はくぼんでいたのです。
そのくぼみにうまくはまり込んで、見かけ上はまん丸の形に戻してくれるものが律法だったのです。
心をまん丸にしてくれているもの。
執着によって維持できる何にもまして大事なものです。
パウロにはイエス様やその弟子たちの言葉が、自分が依存している律法を否定するかのように聞こえました。
律法で定められた「安息日規定」を破ったり、律法で禁止されている罪人と平気で食事をしたりする。
それはパウロにとって自分の心をまん丸にしてくれている律法を否定するものに見えました。
頼りにしている律法が自分の心からはがされる。
自分の心の傷がまたあらわになります。
くぼんだ心、トラウマがよみがえってきます。
自分の心は自分で守る。
傷を隠してくれている律法を守りぬく。
自分の心の存亡がかかっていますから、手加減はありません。
パウロの教会迫害が始まります。
律法に依存、執着、固執をしている。
しっかりパウロは仮言命題です。
そのパウロがイエス様の言っている真意にある時気が付きます。
おそらくは迫害する相手のことをパウロは相当研究をしたのでしょう。
研究をしていたある時、目からウロコが落ちたのです。
律法が「本当に言いたいこと」を正しく解釈していたのはイエスの方だった。
自分はなんにも律法のことが分かっていなかった、と。
律法が本当に言いたいこと、
すでに私たちは確認しています。
「十戒」の言葉。
定言命題です。
何にも依存しない。
依存しなくてもいいように人間は造られている。
にもかかわらず、依存することが必要だと考えるのは人の思い込みだと。
パウロは自分が律法を大切だと思っていたのは実は自分が律法に依存しなければ、律法がなければ倒れてしまうと思い込んでいた。
自分を見くびっていた。
自分のことをなんにも分かっていなかった。
自分を造った神様をなんにも分かっていなかった。
「信仰のみ」
パウロの思考の基礎をなす表現だと思いますが、まさに「信仰が大事だ」は何にすがらず、神に造られた自分を、自分を造った神を信じる。
それ以外のものは全部、仮言命題、「執着」「固執」になってしまうという宣言でもあるのでしょう。
パウロ自身は「定言」「仮言」という表現は用いていません。
ですが「定言」「仮言」というフレームでパウロの言葉をおっていくと彼の思考が鮮明に見えてきます。
そして、このフレームを通すとパウロの更なる葛藤も見えてくるのです。
パウロは定言命題に気が付きます。
自分が大切にしなければならないのは定言命題だと気が付きます。
定言命題は良いもの、大事なものです。
なのですが、実はここからが本当の定言命題とのかかわり方が始まります。
定言命題で生きていこう。
そこには大きな問題があります。
パウロはこれに立ち向かいます。
ただ、これはパウロだけの問題ではありません。
「定言」が世に現れた時から常に変わらず人類に突きつけらて来た問題です。
現代の私たちも例外ではありません。
その問題とは簡単に言えば以下のものです。
「定言命題でやっていこう」
定言命題を行うためには仮言で行っていた執着、固執をやめればいい。
「固執をしない」「執着しない」
そう心に決める。
立派な決意です。
間違っていません。
ですが、この「執着、固執しない」という決意は
「執着、固執しない」に執着、固執していることです。
執着、固執は終わっていません。
仮言命題から抜け出せてはいません。
パウロ自身もローマの信徒への手紙の7章で「いつまでたっても自分は同じところにいる!」と告白をしています。
人はどうすれば定言命題を実現できるのか。
パウロの葛藤ではありますが、私たちの問題でもあります。
この問題は、どうすればOnly Oneと出会えるのかと重なります。
アダム、エバ、カインがとりうる別の行動はなんだったのかとも重なります。
執着をせずに「執着をしない」を実現するためにはどうすればいいのか。
次回、このブログの再開は年明けを予定しています。
お時間があれば、みなさんもこの問いを年末年始にじっくりお考えになってはいかがでしょうか。
それでは
良いクリスマスを
新年をお迎えください。