【シリーズ:聖書の思考回路】第13回
パウロについてお話をしていきます。
パウロはイエス様と同時代、同世代のものです。
キリスト教を確立した人でもありますが、実はパウロはイエス様やそのお弟子たちが大嫌いでした。
イエス様の教えを撲滅すること。
それがパウロの生きがい、使命でもありました。
そのパウロが一転してイエス様が大好きになります。
パウロに何が起こったのか。
結論を申します。
仮言命題から定言命題へ世界観が変わった。
それがパウロの中で起こったことです。
世界観が変わった。
これを説明するために心理学にお手伝いいただきましょう。
まずは私たちの日常で起こっていることから考えます。
私たちには趣味嗜好があります。
それは人によって様々です。
自分が好むもの、興味のあるもの、
それを他人が同じように共感してくれるとは限りません。
同じような環境にいながら私たちはどうして趣味嗜好が異なるのでしょうか。
それは私たちの心の形が異なるからです。
(もちろん仮定の話ですよ)
趣味嗜好
これを「執着」「固執」と言い直してみましょう。
ここのお店のこの料理が好き。
このブランドのこの服が好き。
この作家が、アーチストが好き。
それらに心奪われ、それらを握りしめていたい。
(ちょっと大げさな表現ですが)
これを「執着」「固執」と言わせてください。
この執着、固執が人によって異なる。
それは心の形が異なるから。
ではなぜ心の形は異なるのか。
人の心は始め生まれた時は「まん丸」だったと考えてください。
真っ白なつるんとした球のようなもの。
そのつるんとして球が様々な「情報」という「形」にさらされます。
つるんとした球ですからどんな形のものがあたってもつるんと滑り落ちてしまいます。
心、球には何も残りません。
ところがこのまん丸のつるんとした球に傷がはいります。
くぼみができます。
凸凹ができた丸ポイものになっていきます。
すると「情報」という「形」をさっきまで滑り落していた心だったのに、今度はそのくぼみにはまり込んでくるものが生まれてきます。
凸凹の心にうまくはまり込んだ「形」「情報」
これが趣味嗜好になります。
つるんとした球が持った傷、くぼみとは何でしょうか。
極端な表現を用いることが許されるならばトラウマです。
個々の経験、トラウマが違う。
だから心のくぼみ、形が違います。
違うのですから、そこにはまり込む趣味嗜好も違います。
心の形が異なれば、好みも異なります。
創世記の物語でこれを確認してみましょう。
エデンの園で暮らしていたアダムとエバの心はつるんとした球です。
それが、蛇に「お前には足りないものがる」と言われ驚き、傷つきます。
神様は私に隠していたことがあった。
彼らの心はくぼみます。
そのくぼみを補ってくれるのが「善悪の知識の木の実」です。
これを食べれば大丈夫。
これを補えば私のくぼんだ心はもとに戻る。
木の実を食べる。
それは木の実に執着、固執することです。
心はくぼんだままでは我慢ができないようです。
くぼみを何かで埋めてまん丸の状態に戻したい。
もちろん見せかけのまん丸です。
それでも形だけでもまん丸にしたい。
何かに依存して、執着して自分を作り上げる。
くぼんだ心が復元を目指して執着をする。
何かに依存、執着して目的を達成しようとする。
「番犬の務め」を経由したら「かわいがられる」。
仮言命題のかたちです。
まん丸の心。
何にも影響をされない。
何にもしがみつかないのですからこれは定言命題です。
「私はかわいい」
何も疑わず信じている犬の心はまん丸の定言命題です。
そこでパウロです。
教会を迫害していた時のパウロの心はくぼんだ仮言命題の心でした。
それがまん丸の定言命題の心に戻っていく。
不条理の中で人はどのように振舞えばいいのか。
パウロの心の動きにそのヒントがあります。
それはOnly Oneへと歩み出すヒントにもなります。
この続きは次回。