【シリーズ:聖書の思考回路】第10回
聖書には「定言命題」「仮言命題」が展開されている。
創世記1章、2章には「定言命題」が色濃く反映されていました。
定言命題、これを対称性とも表現しました。
鏡に映したように同じものになっている。
神様と世界。
人と人。
鏡に映したような関係になっていました。
今回は3章を扱います。
エデンの園で暮らしていたアダムとエバが蛇に唆される場面です。
結論から言うならば、ここから仮言命題が始まります。
私たち誰しもが当たり前に行っている仮言命題。
それがここから始まります。
この3章からいよいよ私たちの現実世界が始まるのです。
物語のあらすじを確認いたしましょう。
何不自由なく暮らしていたアダムとエバ。
たくさんの動物たちも一緒です。
その中で最も賢いものが蛇でした。
蛇がエバに語りかけます。
「神様は園のどの木からも食べてはならないと言ったのか」
これに対してエバは答えます。
「いえいえ神様は全ての木から食べろと仰いました。ただし中央に生えている『善悪の知識の木の実』これだけは食べるな。死んではいけないから」
これを聞いて蛇はエバに畳み込むように言います。
「そんなことはない。それを食べると目が開けて神のようになれる。神はそれをご存知なのだ」。
エバはこれを聞いて木の実を改めて眺めると食べるに相応しいものに見えてきます。
エバはこれを食べ、アダムにも食べさせます。
すると二人は裸であることに気が付きイチジクの葉で腰を覆うものを作ります。
あらすじはこんな感じです。
ここに定言命題は崩れ仮言命題が始まった記録があります。
しつこい確認で申し訳ないのですが、仮言命題のサンプルは「犬に向かって、お前は番犬の務めをしたらかわいい」です。
目的、結論に辿り着くためには経由点、条件、原因を通過しなければならない。
そこを通らなければ目的にたどり着くことはできない、と考えるのが仮言命題です。
蛇とエバのやり取りを見てみましょう。
エデンの園で暮らしていたアダムとエバ。
なんの不自由もしていません。
幸せになるためには「何々」が必要。
そのような発想は彼らにはありませんでした。
幸せ = 今、ここ
という感じでしょうか。
対称性、定言命題の形になっていました。
その彼らにささやきかけたのが蛇です。
蛇のセリフは「木の実を食べると神様のようになれる」です。
表面はこういうものですが、このセリフは人の心にある重大な思いを抱かせます。
蛇のセリフにはあるアンダーメッセージ込められています。
人の自己確認の変化です。
これまで人は何も不自由していませんでした。
定言命題。
私は大丈夫。
いわば
私 = 幸せ
です。
そこに蛇のセリフが舞い込んだ瞬間に人の心に起こったものは
私 ≠ 幸せ
すなはち、私はまだ幸せではない。
なぜなら私には足りないものがあるから。
善悪の知識の木の実が足りない。
私は不十分。私には足りないものがある。
その自己理解が生まれました。
足りないものは補わなければなりません。
善悪の知識の木の実を食べる。
木の実を経由して目的地である「幸せ」に辿り着く。
「木の実」に依存し、執着をしてゴールに行く。
番犬の務めをしたらかわいい、の犬と同じ道筋です。
仮言命題が始まります。
木の実を食べた後、人はイチジクの葉で服を作ります。
「足りない」と思ったからです。
それまでは裸で平気だった。
「足りない」が心の中になかったからです。
「足りない」が心の中に入り込んでくる。
それがイチジクの葉で作られた服でしょう。
私は足りないものがある。
足りないものを放っておいてはいけない。
足りないを補う。
足りないを埋めていく。
足りないを埋められれば幸せというゴールにたどり着く。
何かにすがる、依存する、執着する、そうして目的地に近づく。
番犬の務めをしたらかわいがられる。
仮言命題です。
聖書の世界観
世界の基底は定言命題です。
しかし人が動き始めると、途端に仮言命題が始まります。
その仮言命題は現在にまで続いています。
何かに依存して自己確認をする。
これはnumber oneの考え方です。
聖学院が目指しているOnly Oneとは違います。
ですが、私たちはnumber oneの世界から抜け出せないでいます。
依存するもの
富、権力、点数、名誉
これらが備われば幸せになれると感じてしまっています。
仮言命題は正しいと思ってしまっています。
蛇との出会いの後の世界に対して定言命題の回復がなければ平和はないと語るのが聖書です。
聖学院がOnly Oneを大切のするのも同じ理由からです。