115年目の学校の誕生日
聖学院中学校・高等学校は11月3日、115年目の誕生日を迎えました。
創立記念日のこの日、私たちはどういう学校にいるのか?そのことを改めて確認をしたいと思います。
聖学院でずっと歌われ続けている校歌。
ここに創設した先生方の聖学院への思いが込められています。
校歌を思い出してください。
1節、2節は学校の置かれている風景や学校生活の様子などが歌われます。
肝心なのは3節です。
ここで「真、善、美をひとつの聖にすべくくり」と歌われます。
それが使命だとも言われます。
聖学院とは何か、がここで歌われています。
歌われている「真、善、美」とは一体なんでしょうか。
これについてみなさんがこれからずうっと考えてほしいものですが、今日はその入口の話をします。
「真」これは真理とも言い直して良いでしょう。
たとえば「真理」というギリシャ語はふたつの言葉から成り立っています。
「否」「否定」の意味が最初にきます。
「次のようなものを否定しますよ」という意味です。
次のようなものとは「流れ」です。
この「流れ」は少し意味を発展させて「忘却」「忘れる」という意味も持っています。
この「流れ」「忘却」「忘れる」を否定する、というのが「真理」という単語の設えです。
ですから「真理」とは流れに逆らう、忘れることをしない、大きな流れにに見込まれないことが真理だということです。
次に「善」です。
善の反対の言葉から考えましょう。
善の反対は「悪」です。
「悪」とは何か。
悪とは本来のものに欠落があるもの。
あるいは余計なものが付随していること、これを「悪」と言います。
スマホにあるはずの機能がその機種だけになかったらそれは悪い製品です。
ペットボトルのお茶に本来はいるべきもののほかに余計なものが入っていたらそれは悪い製品です。
アダムとエバも本来の自分に足りないものがあると思い込んで、余計な「善悪に知識の木の実」をくっつけた。
それが「悪い」となったのも同じように考えられます。
「悪」が余計のものが一緒にある状態であるならその反対の「善」は本来のものそのままという状態です。
実はこの「善」は次の「美」とも重なってきます。
「美」とは調和があるものとも言われます。
また、本来あるべきところにきちんとそれがあることが美しいと言われます。
お皿の中にあるスープは澄んでいてきれいで美味しそうです。
スープ、器、調和があって美しいでしょう。
ところが同じスープなのに、それが服に付いたりテーブルクロスにしみ込んだりすると汚いと言われます。
「美」とは本来のところにきちんとある。
それは美しくもあり、正しくもあります。
「真」とは忘れないこと。
「善」とは本来のままであること。
「美」とはあるべきところにあること。
そう考えてくるとこの「真、善、美」とは本質、本来を守り抜くということにつながっていきます。
本質、本来を守る、それが「聖」だと校歌は歌います。
「聖」
今の私たちの表現だとOnly Oneですね。
何にも依存しない、支配されない私、Only Oneです。
そのOnly Oneを探すもの、求めるもの、その者が「真、善、美」を見つけ出していくのでしょう。
この社会の「真、善、美」とは何か。
この国の「真、善、美」とは何か。
この国は何を忘れてはならないのか。
この国に余計なもの、欠落しているものはないのか。
この国は本来の場所にちゃんと立っているのか。
この国も、世界も、私たちの社会も、学校も「真、善、美」は実現されているのか。
Only Oneを求めているものならそれが見えるはずです。
聖学院中学校・高等学校は115年、神様から与えられた賜物に気がつき、それを大切にすることを勧めてきました。
Only Oneとは何かを常に問うてきました。
それはこの世界を本来の姿「真、善、美」の整った姿にする、その役目を私たちが担っていこうと願う故です。
それを私たちは校歌として今も歌っています。
この願いが変わらないからです。
それが聖学院です。
学校の誕生日。
私たちの思いを改めて確認しましょう。