「聖書」で Virtual と Real?(※6/1投稿 校長ブログの続き)
前回のブログでご紹介した聖書の授業についての続きです。
聖書の授業でなぜ「Virtual」と「Real」というものを扱っているのか。これは聖書を読む上で、また聖学院のモットーであるOnly Oneを考える上で大切だと思っているからです。
前回のブログを前提に始めます。
森を散歩しているAさんは自分の現実認識が他の人たちとあまりに違うのでおそらく愕然としたことでしょう。ただどうなのでしょうか。この後、Aさんが散歩を続けて、また別の人と挨拶を交わし続けていく。その相手が皆Aさんと同じような現実理解だったしたらAさんの愕然とした気持ちは恐らく解消されていくでしょう。始めは自分の思い込み、Virtualと思っていたものが実は間違っていなかった。正しかった。そう思い始めるときっと自信にもなるでしょう。私が感じたものは「Virtualではない」「Realだ」と。
Aさんが「自分の感じたことはRealだ」と思う根拠になったものはなんでしょうか。言うまでもありません。同じ感想を持つ人との出会いです。すなはち「反復」です。
ただAさんがいくら「Real」との実感を持ったとしても「脳」で処理された現実理解との本質は変わっていません。ですからVirtualであるという事実はなんら変わってはいないのです。それでもVirtual感が薄れ、Realだとの確信が強まる。それを作り出してくれるものが「反復」です。
聖書、宗教は特にこのことに慎重でなければならないと思っています。宗教が大切にする「神」。これはなんの証明もできないのですから、いつでも思い込み、Virtualとの指摘から逃れることはできません。ところがここに「反復」が加わると途端に「絶対の真実」というような自信がみなぎってきます。
「反復」が得られた。みんなが言っている。伝統となっている。それを根拠に「神」を語って良いのでしょうか。
ただ、これは聖書、宗教だけの事柄ではないでしょう。おおよその学問、スポーツ、芸術も弁えているはずです。今「正論」と言われているもの、「真実」と言われているものは、時代と共に変化していく、新しい発見があれば、すぐに取って代わられ「間違い」とのレッテルを貼られる可能性がある。
聖書も同じだと思っています。自分が「真実だ」と思っているもの。それはいつ間違いになってもおかしくない。「神とはこういうものだ」一時、そう思っても「実は神は全然違った」ということを教会は歴史の中で経験してきているはずです。震災や戦争の直後はひとつの実例でしょう。「神様は優しい、私の味方」そういう神理解が通用しなくなるのが危機的状況です。「神はどこに行ったのか」「神は何をしているのか」「神などいない」。よく聞いた言葉です。ですがこの言葉が生まれる背景にあるのは「私の期待していた神とは違った」です。「私の神理解はVirtualだった」です。神が悪いのではないでしょう。私の神理解が悪かったのです。
聖書に登場してくる「神」は神という一般名詞で記されますが、実は発音のできない名前を持っています。ヤーウェなどと言われますが、本当はどう発音したら良いのか分からないのです。発音できない。人が触れないもの。人の脳が到達できないもの。いわばVirtual化できないものが「神」となっています。Virtualにできない領域、Realなところ。そこに「神」がある、というのが聖書の仕立てです。
私たちが掲げているOnly Oneは「反復」によって得られるものではありません。「みんなが言っている」「みんなが持っている」。これに追随してはOnly Oneは見失われます。他者に心が乗っ取られて、他者との「反復」で作られたものはOnly Oneではなく人と比べなければ実現できないnumber oneの領域のものです。
自分の感じたもの、良いと思っているもの。それは他者には共感もされず、否定もされるかもしれません。それでも捨てられない、持ち続ける、問い続ける。Realを求めながらもVirtualから逃れることはできない。その自問自答の中でOnly Oneは見出され、磨かれていくものと思います。
VirtualとRealを考えることに解答、ゴールはありません。いつまでも考えなければならないものがある。Virtualの限界の中にある私たちがRealに接近するのは問い続けること。それが大切なことなのだと伝えたいがため「VirtualとReal」を聖書の授業で扱っています。
と、これで良いと思っているのも私のVirtualなんですが・・・(笑)
(校長:伊藤大輔)