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自分は自分のもの?

今日、生徒は三学期の期末テストを受けています。2020年度の授業が2月27日(土)に終了しましたが、前日26日の朝の放送礼拝が私の最後の担当になりました。そのメッセージをご紹介したいと思います。

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早いもので、3学期の授業も今日と明日の2日を残すばかりになりました。来週からの期末考査にはしっかり準備をして今年度最後の定期考査に臨んでください。

私たちは、自分を自分のものだと思っていますが、その自分が自分の思い通りにならないということを感じたことはないでしょうか? 自分の服や道具は、古くなったり、壊れたりしたら、捨てて新しいものに替えることができます。パソコンや家具や車なら、自分の好きなものを選び、好きなように変えられるのに、自分自身は選ぶことも変えることもできません。気に入らない部分があっても捨てることはできません。自分の体も心も自分の思い通りにはならないのです。それは、この体も、この心も自分のものではないからです。

聖書は言います。
「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。」(詩編24:1)

聖書によれば、私たちの体も心も、私たちを創造なさった神のものです。自分に気に入らないと思う部分、捨ててしまいたいと思う部分も神のものであり、神がそれを慈しんで握っておられると聖書は語ります。私たちは自分の生涯を自分の思い通りに生きたいと思います。しかし、自分のものだと思う自分の生涯が、案外、自分の思い通りにはなりません。生まれる日を決めることができず、両親を選ぶことも、性別や名前を自分で選ぶこともできませんでした。自分の性格や生まれ育った能力を選ぶことはできません。そして、死ぬ日を自分で選ぶことも普通はできません。
神のものは、神がお守りになります。神のものは、神がご自身の御用のために使ってくださいます。私たちは神のものです。

創世記に書かれている通り、神は人を土の塵でお創りになりました。そのため、聖書ではよく、神を陶器師、人を粘土に例えています。神の姿に似せて造られ、神の命の息、神の霊を吹き入れられたのが人でした。しかし、自分を見ると、どこに神の姿があるのだろうと思うほど汚れ、賤しい存在になり果ててしまっています。しかし神はそんな私たちを投げ捨てず、御手の中に握ってくださっています。
固まった粘土が自分で自分を変えられないように、凝り固まった心を変えられない私たちがいます。しかし、神はそんな私たちの心に命の水を与え、柔らかくし、ろくろの上でご自分の望む形に変えて下さいます。
人生のろくろは回ります。そして、そこに私たちを包み込み造り変えて下さる神の温かい御手があります。「あなたがたは私の手の中にある。」と神は語られます。私たちの希望は、私たちを創造し、御手の中で造り変える神から来ます。

私たちは、何か失敗したり、人から傷つけられたりして、心が塞ぎこんだりすると、そのことばかりが頭の中で堂々巡りをして悪い考えが膨らんでしまったり、未来に悪い予測を立てて心が捕らわれてしまったりすることがあります。そんな時、神がなさったすべてのこと、神の御業を思いめぐらすようにと聖書は教えます。神が自分にしてくださったこと、与えて下さったこと、小さいこと、人も知らないこと、或いは多くの人が知っていることもあるでしょう。人を通して神が備えて下さったこともあります。神が自分にしてくださった事実を振り返るのです。事実を確認していくのです。このように考えているうちに、自分の心の波が治まってくるのに気づきます。詩編の詩人はこう歌っています。

「わたしは、あなたのなさったことに思いを巡らせ、あなたの御業を、静かに考えます。」(詩編77:12)