2021年1月8日 三学期始業式式辞
皆さん、新年おめでとうございます。新しい2021年を共にむかえることができたことを喜びたいと思います。
昨年からの新型コロナの感染拡大は今年に入ってから急増し、昨日1都3県で緊急事態宣言が発出されました。幸い、学校は休校にはなりませんが、これまで以上の感染防止対策を徹底させて教育活動を継続していきます。生徒諸君の理解と協力をお願いする次第です。
高校3年生はいよいよ来週16日及び17日に初の「大学入学共通テスト」が行われます。学年教員団はじめ家族や後輩も応援しているので、コロナ禍の中、気を引き締めて、健康に十分留意しながら試験までの日々を過ごして、自分の実力を発揮することができることを期待しています。
さて、今日読んだ詩編139編の作者は、1節~5節では、神さまが自分をお造りになり、命をお与えになったこと。神さまが、自分のすべてを知り、自分の人生の歩みを見守っておられること、どこにいっても神さまは共にいて、自分をとらえ、導いてくださっていることを感謝して、詠んでいます。
神さまは目には見えません。けれども、どこに行っても共にいてくださる存在です。共にいて、自分をとらえ、導いてくださる方です。
「どこに行けば
あなたの霊から離れることができよう。
どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。
天に登ろうとも、あなたはそこにいまし
陰府に身を横たえようとも
見よ、あなたはそこにいます。
曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも
あなたはそこにもいまし
御手をもってわたしを導き
右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」(詩編139編7~10節)
「どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう」という言葉が7節にあります。この言葉は、詩人が、どのようにしてもその支配から逃れることが出来ないことを嘆いて詠んだものではもちろんありません。そうではなくて、これらの言葉は、苦悩の中にある詩人が、神は自分を見捨てられたのではないか、との不安に陥った時、何度も頭をもたげてくるその不安、疑いと闘うために詩人が自らの心に問う、その問いとしてあるものです。苦しみと不安のどん底から、詩人は自問し、そして、新たな気づきを与えられます。「どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう」―「ああ、あなたは確かに、どのような時にもいつも私を捕まえていてくださる。私と共にいてくださる。あなたは私を究め、私を知っておられる。私の避け所である」という答えを繰り返し与えられているのです。
私たちは、誰にも分ってもらえないような重荷や思い煩いに心が乱れることがあります。そんな時、「わたしの心、私の思い煩いを知って下さる」神さまがおられることは大きな慰めです。
1945年8月9日の長崎原爆で奥様を亡くし、自ら白血病で6年後、二人の子供を残して43歳で天に召された医学博士・永井隆が「この子を残して」という本に次のように書いています。
「元来私は神の愛によって無から創造された。母の胎内に宿った時が私の創造であった。その時以来今日に至るまで、私の得たすべてのものは皆神の与えたもうたところである。健康、才能、地位、財産、家族など、すべて元来私の所有ではなかった。だから、いつどこで、これらのものを取り上げなさっても私が損をするわけでもなく、得をするわけでもない。別に嘆き悲しむには当たらない。神の摂理のままにお任せするのが当たり前である。そして、その摂理はつねに感謝し賛美せらるべきものである。なぜなら、神は愛する一人の人間を創造し、それが私であったからである。神は常に私を愛し、絶えず私の幸福を願っておられる。私の身の回りに起こるすべては神の愛の摂理の現れである。それゆえに私はいかなる目に会おうとも神の聖名を賛美せずにはおられない。」
私たちも、神によって愛の内に創造され、愛されるために生まれてきていることを信じ受け入れて人生を歩んで行きましょう。