3月3日に2011年度高等学校卒業式が行われました
卒業生の皆さんの船出を祝福するかのような晴天に恵まれ、3月3日に高校卒業式が実施されました。讃美歌や校歌を歌う声が講堂いっぱいに響き渡り、頼もしく成長された卒業生の皆さん一人一人に卒業証書が授与されました。191名の卒業生の皆さんは、これからそれぞれの道を歩み始めますが、それぞれの賜物を活かし学年テーマでもありました「隣人愛」の精神を大切にしながら、ご活躍されることをお祈り致します。また、長きに渡り聖学院教育にご理解とご協力をいただいた保護者の皆さまに心より感謝申し上げます。(学年主任:清水)
刻苦勉励の甲斐あり、ご卒業の日を迎えられました。おめでとうございます。聖学院での日々は、如何でしたでしょうか。保護者の皆さまには、聖学院教育にご理解とご協力を賜り、衷心より感謝申し上げます。そして、多くの方々の熱き祈りに支えられて、今日という日があるのを誰も忘れてはならないでしょう。
さて、卒業するにあたって皆さんはどのような思い出がよみがえってくるでしょうか。校長室で行っている生徒との雑談会では、体育祭、記念祭、そして修学旅行が三大思い出として上がりました。その他にも部活や、友人との出会い等、聖学院での一日一日が、様々な場面として、走馬燈のように脳裏をよぎるのではないでしょうか。
わたしの思い出を、ひとつあげるとすれば、瑣末なことかもしれませんが、聖学院通りを掃除しながら生徒・児童・町の人々に挨拶をし続けたことでしょうか。ベルタワーの鐘が鳴るまでの一時間ほどですが、月曜から土曜まで出張や校務を除いて、一日も休まず行いました。むろん掃除が好きだからやり始めたわけではありません。低い視線で生徒たちに声をかけたかったのです。酔っ払いに絡まれたり、町の人の喧嘩に巻き込まれたり、色々なことがありましたが、生徒の成長ぶりをはっきり見ることができました。教職員をはじめ、多くの方々によってなされた聖学院教育の果実を、朝の登校時に見ることができるのです。凛々しく成長した姿があります。残念ながらいくら声をかけても無反応の生徒もいました。しかし、わたしは声をかけ続けました。心の戸にノックをするようにしたつもりです。聖学院の人間なら皆声をかけ続けます。その本当の理由は、わたしの聖学院中学時代にさかのぼることができます。
はじめて教会へ通うようになった頃のことです。聖学院中学校に入学した私とクラスメートたちは、日曜日の教会学校を楽しみにしていました。やんちゃな生徒たちを指導してくださっていたのが、皆から敬慕され、とても明るい大学生だったからです。
ある日、大学生であるその先生は、一枚の絵をかざしてわれわれに質問を投げかけられました。「不思議なところがある。それを発見しなさい」というのです。この絵は、暗闇の中でイエス・キリストが家の外に立ち、左手にランプを持ち、そして右手で戸をノックしておられる構図です。どこが不思議なのであろうか。足元にリンゴが転がっているところか。それとも、蔦が絡みついて開きそうもない戸なのか。正解は、「戸の外側にドアノブがない」でした。先生は冒頭の聖句を読み上げられました。そして、その戸は、われわれの頑な心の戸であることを知ったのです。頑迷固陋であるひとりひとりに、イエスは戸の外で声をかけ続けてくださいます。勝手に入ろうとはなさらず、自主的に喜んで内側から開くまで、待っておられるお方であることを表しています。イギリスの画家ホルマン・ハントが「世の光」と題して描いた有名な聖画である、と知ったのは後のことでした。
聖学院では、昔も今もこれからも、あらゆる機会を通して、「世の光」であられるキリストを伝えようとしています。無理矢理ではありません。静かに心の内なる戸が開くのを待っています。自分から開けると明るい光が差し込みます。誰にでも差し込みます。その光に満ちた生徒たちが、駒込キャンパス全体に溢れることを期待し願っています。シャローム