高校卒業式 式辞 3月14日(土)
本日ここに聖学院高等学校第72回(聖学院第113回)の卒業式を挙行できますことを神に感謝したいと思います。また、卒業生諸君、保護者の皆様に心からお祝いを申し上げたいと思います。ご卒業おめでとうございます。
今年は新型コロナウィルスの感染拡大防止の目的のために、例年とは違って、残念ながら在校生不在、ご来賓のご臨席もなく、時間も短縮した形で行うこととなりました。しかし、皆さんの6年間の本校での学院生活が一人一人の人格形成の糧となってきたことと信じます。
さて、人間を評価する考え方に「機能論的人間観」と「存在論的人間観」というものがあります。これはその人の能力、学力、技術などすぐれた能力がある人を優れた人間として評価する考え方です。「あなたは何ができますか?」という問いに対してできるものが多ければ多いほど、優れた人間としての評価がついていきます。ある意味で分かりやすい考え方ですが、人間の価値を「できるか・できないか」だけで区別し、差別化してしまうことになります。人間の社会では、「機能的に有効かどうか」「テストの点数」「学歴」などある種のハードルを越えることができなければ社会的に不適格、不合格というレッテルを貼られ、生きる資格を剥奪されるような冷たい視線にさらされることになります。人は、比較の中で何か優位なものを持てるように頑張りながら生きることを強要させられることになります。能力があり、何かができ、何を持っている、ということで評価する価値観です。小学校から大学に至るまで、学校における生徒や学生に対する評価の仕方は極端なくらい「機能論的人間観」に傾斜しています。そして、社会もそれを是認し大人もその線に沿って人を見比べています。もちろん、技術があり、能力があるということは素晴らしいことであり、賞賛に値します。それ自体が問題ではないのです。ただ、すべてを機能的な評価だけを土台に人間を評価してはいけないのではないかと思うのです。
「機能論的人間観」に対して、「存在論的人間観」というのがあります。考え方は文字通り、あなたがそこに生きているという存在そのものが尊いのだという考え方です。あなたという存在はこの世に二人とはいない独特な、かけがえのない貴重な存在なのだということを認め、存在そのものを喜び、いとおしむことがその土台になる考え方です。本校の教育理念Only One for Others はその意味を表しています。『わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している』(イザヤ書43章4節)神が私たちの存在を丸抱えで愛し、喜んでくださっているという神の見方が根底にあるのです。
この「存在論的人間観」に関しては、私の尊敬する関根一夫牧師の体験談をお伝えしたいと思います。この方は今、お茶の水クリスチャンセンターの牧師であり、カウンセラー、作詞家でもあります。この方は、40年以上前にオーストラリアの神学校に日本人として初めて留学し、入学の時には学長はじめ学生代表が名前を呼んで歓迎してくれたそうです。しかし、オリエンテーションにおけるIQテストでは、英語の問題の意味が分からず、結局その学校で始めてIQゼロという学生になってしまったのです。彼は「人に愛され、受け入れられるためには、何かができるとか人に見せるだけの何かを持っていなければダメなのだ」と堅く信じていました。間もなく、学長室に呼び出されました。軽蔑、侮辱、どなり声、退学処分、強制国外退去などを連想していたそうです。学長はおだやかな、ニコニコした顔をして椅子に座るよう指示し、次のように語ってくれたのです。「あなたがテストの結果で悩んでいるという話を聞いた。しかし、テストは誰かと比較するためにあるのではなく、自分がどの程度のところにいるのかを確認できればそれで良いのだ。もし、点数が悪かったら、それはあなたの準備が不十分だったということだ。その分野について自分のペースでしっかり準備をしていけばよい。きっとできるようになる日は来るのだ。私たちは、あなたが遠い日本からここにやってきて、一緒に勉強できることを本当に素晴らしいことだと思っている。あなたが一緒にいてくれるということで満足しているのだ。心配しないで、自分のできることをやりなさい。心配はいりません、」
できる人には愛される資格があり、できない人間には愛される資格がないというのが彼のそれまでの体験的な人間論だったのです。しかし、こんなに大きく駄目な部分がある自分を、大好きだと言ってくれる人がいるという発見は彼に心の踊るような解放をもたらしてくれたのです。今まで、ありとあらゆることを優越感と劣等感の間で評価し、それを軸に自分を測ってきた狭い見方に気づかされたのでした。
我が国では、小学校の上級生になる頃から、親が今までと違う見方で子供を評価し始めます。ここに、機能論的人間観が入り込んでくるわけです。「存在論的人間観」が「機能論的人間観」にとってかわられる時から、子供は競争社会に放り出され、安心して駄目な自分をさらけ出せる場所もなく、癒される場所もなく、がみがみやかましい、期待ばかりを押し付けられる結果、自己肯定感も下がって生きる意味が見つけられず、本来の「私」「自分」を生きることができず、深く心を閉ざしてしまうのではないでしょうか。
皆さんの手元には今日この「存在論的人間観」に満ち溢れた、高3の学年通信 symphony が届けられると思います。学年の先生方からこの「素敵なメーッセージが綴られています。大切にして下さい。
私たちは今日の聖書のことばを聴き続けることによって「生きるもの」となれるのだと思います。最後にもう一度聖書を読みます。
【ヨハネの手紙1 4章9~12節】
「神は独り子を世におつかわしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に示されました。私たちが神を愛したのではなく神が私たちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をおつかわしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛し合うべきです。」