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「震災被災地をめぐる旅」の報告です

 あの震災から1年半が経過し、時間とともに人々の記憶から遠ざかりつつあるかのように思います。確かに原発の直接的被害をほとんど受けていない宮城と岩手の両県は、順調とまで言えずとも、着実に復興の緒についているように見えます。しかしその一方で、復興には途方もなく長い時間と多くの人手が必要であるという切実な声を耳にします。

 震災発生以来、被災した人々に寄り添いたいという思いから、「絆」という文字が国中に溢れました。生徒達の中にも、「何か自分にもできることはないか」と考える諸君が相当数いることが予測されました。そこで「震災被災地をめぐる旅」を企画し、この夏実施にこぎ着けました。
 8月20日から3泊4日で、岩手県宮古市、釜石市で視察を行い、陸前高田市と宮城県気仙沼市でボランティア活動を体験しました。参加者は呼びかけに応えた高1、高2の生徒が22名、教員6名、合わせて28名でした。

 宮古の田老地区は過去にも幾度となく津波の被害を受けてきた地域で、その教訓から、戦後、世界最大の防潮堤がX字形に築かれ、その姿から「万里の長城」に例えられていました。しかし、今回の地震に伴う津波は、いとも簡単に防潮堤を乗り越え町を破壊し尽くしました。6階建ての田老観光ホテルは4階以下の鉄骨が剥き出しになり、無残な姿をさらけ出しています。
2日目には、宮古の漁業を営む中村さんの漁船に乗せていただき、海上で地震当日の様子を伺いました。中村さんは当日沿岸で漁船に乗り漁をしていて、地震発生とともに津波から逃れるためにさらに沖に漕ぎ出し難を逃れたのでした。三陸のリアス式海岸では、かき、のり、ほや、ほたてなどの養殖がさかんでしたが、津波により壊滅的打撃をうけました。今年になってようやく養殖再開に漕ぎ着けたようで、湾内には定置網の浮きのほか、たくさんの養殖筏が浮かんでいました。
午後は釜石に向いました。釜石東中学校と鵜住居小学校の生徒児童が逃げ延びたコースを実際に歩いて、「釜石の奇跡」を追体験しました。釜石の小中学生は地震発生とともに、日頃の訓練どおり一斉に高台に避難し、地震発生当時学校にいた児童生徒全員が助かったのです。釜石東中の中学生は隣接する小学校の幼い子どもたちの手を引き、あるいは背におぶって避難したといいます。その一方で、同じ鵜住居地区にあり、逃げ込んだ保育園児を含む住民の大半が生命を落とした防災センターを見学しました。1960年のチリ地震津波では難を逃れたことや、津波予報の第一報が3メートルの予想であったことから、住民達はあえて高台に避難をしなかったとのことです。目と鼻の先で明と暗が分かれたのでした。地震から逃れることはできなくても、津波から逃れることはできることを、そして日頃の訓練の大切さを思い知らされました。

 3日目は、「一本松」で知られた陸前高田のボランティアセンターに向いました。気仙川沿いにあるボランティアセンターには、東北地方だけでなく、遠く大阪や名古屋、和歌山などの高校や企業など様々な団体の観光バスがセンター前の広場を埋めつくしていました。
作業内容は用水路のヘドロ除去と決まり、資材をバスに積み込み現場に向いました。酷暑の中の作業となりました。しかも掻き出しても掻き出しても一向に減らないヘドロの量に閉口しながらも、そこに混じった屋根瓦や陶器のかけら、子どものおもちゃなどに、そこに営々と築かれてきたであろう人々の日常を垣間見ることができました。
果てしない復興への道のり。それに対して私たちのできることは微々たるものに過ぎません。それでも何とか水田を元通りにし、稲作を続けたいと願う農家の助けになればとの思いで、生徒たちも黙々と作業を続けました。
宿舎がある気仙沼大島に引き上げる途中、巨大な遠洋マグロ漁船が住宅地の真ん中に打ち上げられている現場に立ち寄り、静かに黙祷を捧げました。

 4日目は、気仙沼復興協会の斡旋で、御伊勢浜の海岸清掃を行いました。この浜は陸中海岸国立公園の一番南端に位置し、震災前は大勢の海水浴客で賑わい、市民の憩いの場となっていた所です。大勢のボランティアが波状的に清掃を行ってきたので、随分ともとの姿を取り戻しつつありましたが、海草や貝殻に混じり、生活の痕跡を留めるものを目にしました。
私たちは建物の「残骸」とか「瓦礫」といった言い方をついしてしまいます。しかし、被災者の方々にとってみれば、家族の歴史と思い出が刻まれた掛け替えのない生活の証です。海岸付近の住宅地は壊滅状態で、気仙沼向陽高校の校舎だけが廃墟の中に墓標のようにその姿を晒していました。

 3・11は色々な意味で、日本社会や日本人のものの考え方に大きな変革をもたらしました。端的にいうならば、お金に換算できる物質的豊さではなく、慎ましやかだが、人と人との絆を実感できる生活の中に豊さを求める人々が増えているように思うのです。陸前高田のボランティアセンターの広場に所狭しと集結した観光バスとボランテイアの数に圧倒されながらも、思いを同じくする大勢の仲間たちに熱い連帯感を感じたのは私だけではなかったのではないでしょうか。人の悲しみや苦しみに寄り添いたい、そんな純粋な気持ちを大切に育てて行きたいとつくづく感じた4日間の旅でした。


  田老の防潮堤を歩く
(奥に見えるのが田老観光ホテル)

漁船に乗り、震災当日の様子を伺う

 釜石東中学校

用水路でヘドロ除去作業に奮闘

 

土嚢を積んで作業終了

津波で打ち上げられた遠洋マグロ漁船
(気仙沼市)

御伊勢浜に集結したボランテイアの面々
(中には聖大生2人も。
右遠方に見えるのが気仙沼向陽高校)